人物

フットボールに引導を渡されたチャウシェスク

ルーマニアの名門クラブであるステアウア・ブカレスト(※現 FC FCSB)の栄光は、かつてこの地を独裁統治していたニコラエ・チャウシェスクによって支えられた。それまで国内のライバルたちの影に隠れていたクラブは、ルーマニア最高レベルの選手たちを揃え、東欧勢初の欧州チャンピオンにまで登りつめた。それでもステアウアの栄光が過小評価されるのは、あの有名な独裁者の溺愛と言えるほどの過剰な協力があったからに他ならない。

ながらくルーマニアサッカーをリードしてきた、首都ブカレストの2つの総合スポーツクラブ…ディナモとステアウア。前者は内務省の“悪名高い”秘密警察・セクリタテア(またはセクリターテ)、後者は国防省・国軍を母体としており、ともに共産主義の時代には政府の庇護下におかれていた“ルーマニアの象徴”と言える存在だ。1960年代にリーグ4連覇を記録し、83-84年シーズンではUEFAチャンピオンズカップ(※UEFAチャンピオンズリーグの前身となる大会)でルーマニアのチームとして初めてベスト4に輝いたディナモに対し、ステアウアもまた80年代のリーグ5連覇に加え、テリー・ヴェナブルズ率いるFCバルセロナをPK戦で破り東欧勢初の欧州制覇(※1985-86シーズン)を達成するなど、国内外の大会で好成績を残してきた。人気と実力を兼ね備えた両者の対戦はルーマニアのナショナルダービーであり、『エテルヌル(永遠の)ダービー』とも『マレレ(偉大な)ダービー』とも呼ばれている。

85-86UEFAチャンピオンズカップにて、バルセロナを破って欧州王者となったステアウア・ブカレスト。86年にはTOYOTA CUPのために来日、リバープレートと世界一をかけて戦った。
ステアウアとディナモのナショナルダービーの様子。かつての独裁政治の一翼を担っていた秘密警察を母体としたディナモに対し、多くの人々は相対するステアウアを熱狂的に支持している。恐怖の対象であったセクリタテアへの消えない憎しみとともに。

とくに86年から89年の間に104戦無敗(※119戦とも言われている)という当時の欧州・世界記録を残しているステアウアは、赤軍のシンボルである赤い星から由来されたクラブ名(※ルーマニア語で『星』の意)、“東欧のマラドーナ”と呼ばれたゲオルゲ・ハジやゲオルゲ・ポペスクといった代表選手を揃えた“オール・ルーマニア”の布陣、獲得してきた26のリーグタイトルと6つのカップと、人気実力ともにNo.1の存在。著名なルーマニアのサッカージャーナリストであるエマニュエル・ルソは、ルーマニアにおけるステアウアというクラブについて「政治思想に関係なく、どこにでもステアウアのファンはいる。このクラブを好きになることも、嫌うこともできる。だが、無関心でいることはできない。不可能だ。」と評している。

優勝の立役者であるGKヘルムート・ドゥカダムを中心に、ビッグイヤーとともに記念写真に納まるステアウアの優勝メンバー。ルーマニア帰国時には、厳しい独裁政権統治下にもかかわらず、彼らを迎えるために3万人もの人々が空港まで行進したという。
スペインはセビリアのラモン・サンチェス・ピスファンでおこなわれた、ステアウアとバルセロナの85-86チャンピオンズカップ決勝。前年の大会決勝で発生した『ヘイゼルの悲劇』のためにイングランドチームが除外された今大会は、ドゥカダムがPK戦でバルサのキック4本全てを止めるという神業でステアウアが優勝した。

だが、こうしたステアウアの栄光にはいささかケチがつく。非常に優れたチームである以上に、欺瞞に満ちたチームであったことを誰もが知っていたからだ。脱税、汚職、買収、そして脅迫。共産主義社会であったルーマニアには、あらゆる不正と不公平が蔓延していた。社会の縮図であるフットボール、そしてルーマニアの名門クラブもまた例外ではない。むしろ、彼らの大きな後ろ盾であったのが最高権力者・チャウシェスクだっただけに、更に過激で露骨であったといえる。

欧州制覇を成し遂げたステアウアの選手たちを出迎えるチャウシェスク。プロパガンダに使えるサッカーや体操などには膨大な資金を投入したが、興味のない野球などには法令でプレーを禁止するほどの徹底っぷりだった。

24年間ルーマニアを統治し続けたニコラエ・チャウシェスクは、元々クラブの前身であるCCAブカレスト時代からの熱心なステアウアファンだった。その熱狂の度合いはルーマニア共産党内でも有名で、国防省の要職に就いた後もステアウアの重要な試合は欠かすことはなかったという。またサッカーをめぐる内務省(ディナモ)との省庁同士の激しい対立は家族までも巻き込むものとなったため、当時の書記長ゲオルゲ・デジから試合観戦の禁止を言い渡されるほどだったという。

チャウシェスクが国の実権を握ってからしばらく後、1980年代に入ると政府の経済政策が軒並み失敗した。国民の生活レベルが急速に低下し困窮するさまを知ってか知らずか、チャウシェスクは自らの一族を優遇し、宮殿のような邸宅である通称『国民の館』を建設。国民を省みない独裁政権への人々の不満は日増しに大きくなり、かつてあった人気も支持も失っていった。チャウシェスクは他の独裁者と同様、政権維持のための情報統制と不満分子の弾圧強化に乗り出すと同時に、スポーツ分野に力を注ぐことで批判の矛先を変えようとした。中でもステアウアは人気取りには格好の材料。だが当時はディナモと、83年にUEFAカップ4強を果たしたウニヴェルシタテア・クラヨバが国内外の大会で結果を残しており、大統領はステアウアにも同様、またはそれ以上の結果を強く求めた。当初、あまりにも結果を出せずにいたチームに「勝てなければ解散するぞ」と脅すこともあった。

独裁政権下、人々の娯楽は著しく制限された。TV放送は1日2時間のみとされ、中継もわずかな例外を除きステアウアとディナモの試合に限られていた。ハンガリーやユーゴスラビア、ブルガリアとの国境近くに住む“幸運な”人々は、アンテナの気まぐれから中継を観ることができた。が、それ以外の住民はスタジアムへ出かけ、チケットが売り切れとなればピッチが覗ける高台にあがるしかなかった。

その後チャウシェスクとステアウアは、タイトルを奪うためにはなりふり構わないようになる。買収された主審はステアウアが得点するまで決して試合終了のホイッスルを吹こうとはせず、脅された対戦相手は万が一“勝ってしまった時”の報復を恐れながら戦い、秘密警察の取り締まりを恐れたサッカーファンはあらかじめ勝者が決まっていることを知りつつスタジアムへ向かっていた。報じる新聞社も記者に対し、どのように試合を扱うべきかを指示していたという。そして“ステアウア派”のクラブはディナモの優勝を阻むように、ステアウアからは勝ち星を奪わないように奮闘した。(もちろんディナモも同様の工作を試みたため、国内リーグは実質ステアウアとディナモの戦いのみ注視された)

選手の移籍についてもステアウアに有利なルールが設けられた。当局はライバルチームから有力選手を半ば強引に移籍させる自由を、国家機関が管理するチーム…とくにブカレストの2クラブに“特権”として与え、他クラブには移籍すること自体を禁止したのだ。この不可解な規則の有名な悪例のひとつに、ルーマニア史上最高の選手の1人であるゲオルゲ・ハジの移籍があげられるだろう。彼は1987年、ディナモ・キエフとのUEFAスーパーカップを戦うため、同じブカレストのクラブであるスポルトゥル・ストゥデンツェスクからステアウアに、たった1試合だけ貸し出された。にもかかわらず、彼はタイトルをもたらす大会唯一となるゴールをあげた後も、2度とローン元へ戻ることはなかったのだ。スポルトゥルの当時の会長だったマック・ポペスクは、怒りをもって当時を振り返る。

私たちからハジを奪ったにも関わらず、ステアウアは何もくれませんでした。明らかにこれは違法でした。もちろん補償を求めましたが、サッカー連盟の支援を受けているステアウアからは返答さえありませんでした。

(※『Los Angeles Times』1990年4月1日記事より)

こうしたステアウアやディナモが関わる“引き抜き”に対し、移籍金やレンタル料が払われることはなく、にも関わらずクラブや選手は異を唱えることすらできなかった。

ルーマニア史上最高のMFの1人、ゲオルゲ・ハジ。革命後は、クラブレベルではレアル・マドリード、バルセロナ、ガラタサライなどに活躍の場を移し、代表では20年ぶりのW杯出場に貢献。とくに94年W杯アメリカ大会では、コロンビアやアルゼンチンといった優勝候補を破る快進撃の立役者となった。

一方で自然とクラブに有望な選手が集まるような“大きなニンジン”も用意されていた。東欧のクラブにおいて欧州制覇を成し遂げた唯一の2クラブ、ステアウアと旧ユーゴスラビア時代のレッドスター・ベオグラード、その両方で活躍したルーマニアの伝説的スイーパーであるミオドラグ・ベロデディチはこう語る。

軍が運営するクラブでの競争は、非常に激しいものだったよ。誰もがステアウアやディナモでプレーしたかったからね。両クラブでプレーすること、それは兵役から解放されることを意味していたのだから。

(※『EURONEWS』2021年11月3日記事より)

極めつけは1987-88シーズンのクパ・ロムニエイ(ルーマニア杯)決勝だ。雪化粧に覆われた12月3日のブカレスト、スタディオヌル・ナツィオナル(※スタディオヌル・リア・マノリウ 旧ナショナルスタジアムのこと)。ディナモとのダービーとなったこの試合、1-1で迎えた後半アディショナルタイムにステアウアがガヴリル・バリントのゴールで勝ち越し…と思われたがオフサイドの判定、試合は延長戦で決着をつけることとなった。だが当時クラブの経営に非公式に参加していたニコラエの息子、ヴァレンティンがオフサイド判定に猛抗議。選手をピッチから引き上げさせ、延長戦開始を拒否した。試合を再開できなかったため、主審は試合を中止しディナモの勝利を宣言した。

試合後に私はディナモを祝福するため、彼らのロッカールームへ行った。だがディナモのコーチは「まだ決まっちゃいない!」と叫んだ。そして私にトロフィーを投げると、ここから去るように言ったんだ。

(※『FourFourTwo』2002年11月1日記事より)

ヴァレンティンに本当に相手を祝う気持ちがあったかはともかく、コーチの叫びは試合翌日に現実のものとなった。チャウシェスクの家族の要請による共産党中央委員会会議が緊急召集され、結果としてトロフィーはなぜかステアウアへ手渡されたのだ。(なお、このトロフィーはルーマニア革命後にステアウアからディナモへ返却することを提案されたが、ディナモは受け取りを拒否している)この“事件”はルールを無視した独裁者の横暴をあらわす代表的な出来事として、広く人々に知られている。

87-88のルーマニア杯決勝、オフサイドの判定を巡って揉めるステアウアとディナモの選手たち。ステアウアの前にルーマニアを代表するクラブだったディナモは、高い実力はもちろんのこと、母体となる秘密警察の権力をいかんなく発揮。とくにライバルのステアウアにはオフィスに盗聴器をしかけ、幾度となく移籍の妨害などをしていた。

しかしステアウアとチャウシェスクの栄光の日々は、突如終りを告げる。1989年12月21日に起こった学生中心の抗議集会は、大統領派でディナモの母体・セクリタテアと、市民側についたステアウアの母体・国軍との市街戦に発展。のちにルーマニア革命と呼ばれる争乱でチャウシェスク政権は事実上崩壊、発生から5日後に大統領夫妻が銃殺され幕を閉じることとなったのはご承知の通りだ。そもそもチャウシェスクの影響力が大きい国軍が反体制派にまわったのは、銃による抗議集会鎮圧を指示されるも拒否した国防相が直後に自室で変死していたためとされる。国営放送は自殺と伝えたが、市民はもちろん国軍兵士も誰もがチャウシェスクに処刑されたと信じたからだった。

革命の日に大統領宮殿に殺到したブカレスト市民たちは、夫妻が乗ったヘリコプターが飛び去るのを目撃すると一斉に“ある歌”を唄いだした。それは日本でもなじみ深い、あの有名な歌であった。

「Ole ole ole ole, Ceausescu nu mai e!」

(オレ、オレ、オレ、オレ、チャウシェスクがいなくなった!)

ベルギーの名門・アンデルレヒトの『Anderlecht Champion』。アンデルレヒトはかつてエンツォ・シーフォを中心とした、80年代の欧州を代表する強豪クラブであり、ステアウアが欧州制覇を果たした際に準決勝で対戦した相手であった。1985年に1人のファンによってフランス語で作られたとされるこの歌は、今も彼らのホームであるコンスタン・ヴァンデン・ストックスタディオンはもちろん、世界中のサッカーファンに広く歌われるチャントである。「俺は勝ったのか?ああ、お前は勝ったんだ!」という歌詞から始まるこのチャントは、24年に及ぶ虚飾と恐怖によって彩られた“チャウシェスク帝国”の幕引きにふさわしい、まさに民衆による勝利の歌だった。

国軍vs秘密警察の図式となった市街戦。革命の成功は軍が反体制側にまわったことが大きい。
デモが起こった翌日の1989年12月22日、単なる騒乱でないと理解したチャウシェスク夫妻がヘリで避難した際の様子。
アンデルレヒトファンが歌う『Anderlecht Champion』。日本のサッカー番組でも使われるこの曲は、世界で最も有名なチャントのひとつと言える。

革命からしばらくして、1980年以降130人の審判と40人の選手・役員が八百長に関与したと判明し起訴された。大きな後ろ盾を失ったステアウアは共産主義との関係を断つ意味で、エンブレム中央にあった赤い星を取り除いた。強引にかき集めた国内のトップ選手たちは、欧州内の移動が自由におこなえるきっかけとなったボスマン判決のために、ハジを筆頭に西側のビッグクラブへと去っていった。だが一方で、90年代のルーマニア代表はワールドカップ3回出場し、いずれもグループステージを突破する活躍を見せた。EUROには2度出場し、92年大会は逃したものの、2000年にはベスト8に進出することができた。長く国際舞台と無縁であった代表チームが革命後に黄金期を迎えるとは、なんという皮肉だろうか。

革命後のステアウアは多くの戦力を失ったが、(ひとときとはいえ)不正も裏金もなく健全だったとの声も。が、実業家・ベガリが国防省との土地取引をきっかけにクラブ経営に参加すると、ステアウアに新たな混乱を招いている。

ちなみにステアウア、今のFC FCSBの現オーナーであるゲオルゲ・“ジジ”・ベガリは、「私はステアウアの独裁者になりたいんだ」と公言してはばからない、“金も出すが口も出す”昔ながらのタイプの暴君だ。この実業家に翻弄されるステアウアと、クラブ名とチーム分裂にまつわる騒動については興味深い話があるのだが…それはまたいずれの機会に。

投稿者プロフィール

KATSUDON
KATSUDONLADS FOOTBALL編集長
音楽好きでサッカー好き。国内はJ1から地域リーグ、海外はセリエAにブンデスリーガと、プロアマ問わず熱狂があれば、あらゆる試合が楽しめるお気楽人間。ピッチ上のプレーはもちろん、ゴール裏の様子もかなり気になるオタク気質。好きな選手はネドヴェド。
ABOUT ME
KATSUDON
音楽好きでサッカー好き。国内はJ1から地域リーグ、海外はセリエAにブンデスリーガと、プロアマ問わず熱狂があれば、あらゆる試合が楽しめるお気楽人間。ピッチ上のプレーはもちろん、ゴール裏の様子もかなり気になるオタク気質。好きな選手はネドヴェド。
最新記事
関連記事
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。