東南アジアサッカーは、新たな段階を迎えている。これまで政情の不安定さや経済の低迷といった同地域特有の要因が、長らくサッカーの発展を妨げてきた。だがここにきてタイ、ベトナム両国に遅れをとっていたカンボジア、ミャンマー、ラオスといった国々からも、国外に挑戦する多くのタレントが登場。また今季はJ2の東京ヴェルディがインドネシアの大スター、プラタマ・アルハンを獲得して話題を集めている。世界から“フットボール界における最後のフロンティア”と呼ばれる東南アジア。出場枠が増加する2026年ワールドカップを見据え、ようやく膨大な資金と専門的な知識を持った人材が投入されるようになり、それまで日が当たらなかった国々にも大きな変化の兆しが現れ始めたのだ。もちろんそれは“後進国”と呼ばれたシンガポールにおいても。
「(トム・ハンクスが演じた映画の主人公、フォレスト・ガンプは)常にグループの中で最も賢い人間、または肉体的に最も優れた人間ではないが、非常に素晴らしい心を持っている。辛抱強さと勇気をもち大勢の人々を助けたことで、彼は非常に成功し有意義な人生を送ったんだ。」
大学時代、講師が呼びやすいようにと自ら付けたニックネーム「フォレスト」の由来を語るのは、中国・天津出身のシンガポールの実業家であるフォレスト・リー。彼が共同創業者、そしてCEOをつとめる東南アジア最大のIT企業・Seaグループは、アメリカのAmazonや中国のアリババと並ぶネットショッピングと、全世界で4番目のダウンロード数を誇る『Free Fire』に代表されたオンラインゲーム、そしてその両方で使える電子決済サービス、3つの事業を核として急成長を続ける、日本の投資家も大注目のモンスター企業だ。現在グループはその販路を南米にまで広げており、フォレスト・リーが築いた財は実に2兆1,700億円にものぼると言われている。


そんな規格外の大富豪が2020年、シンガポール警察サッカー部をルーツに持つホーム・ユナイテッド、のちのライオン・シティ・セイラーズ(以下、LCS)を買収したことは、国内外から驚きをもって報じられた。“東南アジアの覇者”とも“シンガポールのスティーブ・ジョブズ”とも形容されたフォレスト・リーをもってしても、この新たなプロジェクトはイバラの道に思われたからである。
基本シンガポール・プレミアリーグはシンガポールサッカー協会(FAS)や、州が運営するサッカーくじによる助成金に大きく依存しているリーグである。だがLCSは国営チームを史上初めて“民営化”したクラブであるが故に、これら多額の支援に頼ることは許されなかった。またフォレスト・リーとSeaグループは、これまでおざなりになっていたクラブのありとあらゆる分野に対して資金を投下する必要もあった。それはトップチームを支える若年世代の育成やアカデミー組織の設立、彼らをサポートするスタッフの確保といった基盤づくりはもちろん、地元との交流事業やマーケティング、中には公式ウェブサイトを充実させるために広報担当者を雇うという極めて初歩的な部分まで多種多様。買収とは名ばかりの、イチからのスタートを強いられていたのだ。

一方で、前述の助成金による運営が当たり前という既存のクラブとは異なり、年棒の制限がなく豊富な資金を持つLCSにとって補強面では優位に働いた。結果としてベンチにすら入れずレンタルに出される可能性が高いとしても、国内の有力選手たちはこぞって大富豪の下で働くことを選択。今ではシンガポール代表チームの半数がLCS所属選手となっているほどの充実ぶりで、その姿はいちクラブで代表チームの底上げに繋げたお隣の国、マレーシアのジョホール・ダルル・タクジムFCと重なる。
さらにチームは2020年に蔚山現代でアジア制覇を成し遂げたキム・ドフンを指揮官として登用。他にも韓国代表の長身FWキム・シンウクや、育成年代ではエデン・アザールと並び“ベルギーの宝”と評されたマクシム・レスティエンヌ、そしてシンガポールリーグの年間予算に匹敵すると言われる史上最高額の移籍金で引き抜かれたジエゴ・ロペスと、チーム強化で他を圧倒している。その脅威的な戦力はクラブ買収後2年で国内制覇、その後初出場となったAFCアジア・チャンピオンズリーグでライバルたちと充分わたり合う様子からもお分かりになるだろう。

その効果もあってか、現在クラブのフォロワーはFacebookで35,000人越え。Instagramは20,000人に迫る勢いであり、これは他のシンガポール・プレミアリーグ所属のチームの2倍以上となる数字である。それでも地元のサッカーライター、ゲイリー・コウは『Channel NewsAsia(CNA)』にて「人々の関心は、気まぐれや慈悲による民営化を実現したフォレスト・リーにある。人々はLCS加入後に給料が倍になる選手のことよりも、そのオーナーのことの方をよく知っているのだから。」とコメント。海外サッカーに慣れ親しんだシンガポールの目のこえたサッカーファンの注目を集めるにはまだまだ足りないと指摘する。またLCSの前身、ホーム・ユナイテッド時代からの熱狂的ファンでありYouTuberでもある、サポーターグループ『The Crew』のアイマン・リフキも、「一般的なサッカーファンは海外サッカーのみに注目してるんだ。シンガポールサッカー?誰もよくわかっちゃいないんだよ(笑)」

周囲はいくら多額の資金を費やしても“赤ん坊のような歩み”で改革が進まないことで、いつフォレスト・リーが痺れを切らすのかと危惧している。地元メディアCNAは前述の記事をこの様に続けている。「アジアでも著名な資産家の1人である彼の野心が、人口600万人程度のシンガポール国内でとどまるとは思えない。Seaグループが欧州5大リーグのクラブを購入することは、世界的な知名度の向上のための近道となるだろう。」
実際、フォレスト・リーがトッテナム・ホットスパーへの投資を計画中とのニュースが、現地イギリスの紙面をにぎわせていたこともある。残念ながら、お得意様であるインド市場からSeaグループの主力であるゲームアプリが徹底的に排除された(※Seaのゲームは世界市場進出のために中国メーカーを経由させているが、インド政府が中国企業に関連するあらゆる物を中国との関係悪化を理由に禁止したため)ことで大幅減収となり、土壇場で投資計画は消失。補強を切望していたスパーズのアントニオ・コンテ監督を喜ばすことは叶わなかったようである。ただ、そのおかげ…というべきか、もうしばらくは自国のチームだけに力を注いでくれそうだ。

「我々はライオン・シティ・セーラーズをシンガポールの誇りとなるよう成長させるという、明確な目標を念頭に置いています。フィールド外では、さらに強力なサッカーコミュニティを構築したいと考えており、シンガポールサッカー界全体を活性化するきっかけになりたいと思っています。」
LCS買収の際サポーターに向けた所信表明でこのように語ったフォレスト・リー。彼らがこの地で大きな成功を収めることで、他の地元企業もまたサッカーに対する投資を検討するかもしれない。真の活性化はLCSのようなチームが複数誕生し、互いにタイトルを争うリーグとなった時に達成するはずだ。フォレスト・リーとLCSが本当の意味でのシンガポールサッカーの起爆剤になれるのか。その結論が出るまでは、彼のニックネームの由来であるフォレスト・ガンプのように、今後も辛抱強さと勇気が試されることだろう。

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