クロアチア、ドイツ、ブラジル、コロンビア…。多種多様な出自を持つアメリカ代表の面々だが、特にMLSのロサンゼルスFC所属であるケリン・アコスタのルーツを聞けば、間違いなく皆さんも興味をもってくれるに違いない。現在27歳の彼は父形の祖母が日本人、実父も少年時代は沖縄に住んでいたという、日本の血を引くアメリカ人である。もし11月にスターズ・アンド・ストライプスの一員としてカタールのピッチを踏むことになれば、同国代表で初めてW杯に出場する日系アメリカ人選手となるのだ。今回は波乱の少年時代を送ってきた彼の物語を紹介する。
アコスタの特徴をひとことで言えば、ボックス・トゥ・ボックスプレイヤーだ。献身的な守備と、チャンスと見れば前線へ飛び込んでくる積極性、またフリーキックに加えてミドルシュートという武器も兼ね備えている。ハイボールに対しても抜群の強さを見せ、さらには本職のセントラルミッドフィルダー以外にもアンカー、サイドバックさえもそつなくこなせるというユーティリティっぷり。負傷者が少なくないアメリカ代表において、限られた人数の中でのやりくりを強いられるグレッグ・バーホルター監督にしてみれば、ぜひとも手元に置いておきたい選手だろう。
カタールW杯ではスタメン候補と目されるウェストン・マッケニー(24歳 ユヴェントス)やタイラー・アダムス(23歳 リーズ・ユナイテッド)、ユヌス・ムサ(19歳 バレンシア)の控えになる可能性は高いが、平均年齢23.82歳(※北中米カリブ海予選時点)と本大会出場32カ国中で最も若いチームだけに、2度のCONCACAFゴールドカップ制覇など多くの経験を持つ“中盤のリーダー”にかかる期待は大きい。

「人と違うことがとても好きですね。多くの文化を理解して、多くの人々と関係を築くことができるので。また、W杯でプレーする最初の日系アメリカ人になるチャンスがあるかもしれないことを誇りに思っています。同じようなバックグラウンドを持つ人たちに、何か発想を与える手助けができることを心の底から願っています。」 (※The Players Tribune 2022年5月27日記事『Being Japanese-American』より)
アコスタは自身が日系アメリカ人、アジア人の一部であると積極的にメディアに語るようになったのは、実はここ最近のことである。本人曰く、日系であることに誇りを持っていても心の中に秘めているだけで、これまで表に出すことはほとんどなかったという。もちろんこれは自分の出自を恥じているからではない。だが少なくとも幼少期の彼にとって、最もわずらわしい問題になっていたのは間違いない。

アコスタ家はかつての日本らしさを(良くも悪くも)感じさせる家庭であり、彼は子供の頃から厳しく育てられた。共働きの両親にかわり、アコスタと彼の兄弟たちの面倒をみるのは日本人の祖母の役目。特に裕福といえない一家の中で彼女が繰り返し孫たちに説いたのが、身の回りの物を決して粗末に扱わない、壊れるまで使い続けるということ。この言いつけをしっかり守り続けたアコスタは、大きくなってからもしばらくは子供の頃のおもちゃなどを大事に取っておいたという。
一方の父親の方もまた、日本でも絶滅寸前の典型的“昭和の頑固オヤジ”そのもの。その厳しさはどんなにテストで良い点を取っても、すべての科目の成績がオールAでなければ激しく怒られたというほど。そんな父親の決まり文句は「100%では足りない、110%を出せ」。このおかげというべきなのか、現在のアコスタのプレースタイルは奇しくも父の口癖を体現するものとなっている。アコスタは当時のしつけを振り返って、いまだに2人を「畏怖の念を抱く存在」と語るものの、のちにピッチ上で成功した秘訣として「アジア風の規律」のおかげと述べていることから、祖母と父親の愛情はしっかりと彼に届いているのがわかる。

むしろ悩みは家の外にあった。アコスタが生まれ育ったテキサス州は、白人が多くを占める“カウボーイの国”。そのためプエルトリコ系の母親の影響を色濃く残す褐色の肌は周囲から奇異の目で見られ、クラスメイトや大人たちによる無邪気で残酷な差別がアコスタの心を幾度となく傷つけた。夜遅く帰宅する両親にかわって学校に迎えに来た祖母を見た人々からは、彼との容姿の違いから「乳母じゃないのか?」や「本当は養子なのでは?」といった心ない言葉が容赦なく浴びせかけられた。アコスタはそうした差別や日常的なイジメに耐えきれず、時にはクラスメイトから必死で祖母を隠そうとしたこともあったという。
さらにアコスタを苦しめたのは、テキサスでは“普通の男の子”の1番人気のスポーツはいつだってアメフトであり、最大の夢がNFLのダラス・カウボーイズの選手になるということ。そして彼が愛するサッカーは女の子のスポーツである、というステレオタイプが定着していたことだった。案の定、サッカーを選んだアコスタはクラス中からバカにされることに。孤立を深めた彼は自らの居場所を探すように、いわゆる“普通の子”たちのようにアメフトを習い始める。これ以上目立たないよう集団の中に埋没すること。これが幼い彼が考えうる、偏見と差別から逃れるための精一杯の手段であった。アコスタ、わずか9歳のころの話である。
「(独自のアイデンティティを築くまで)そんなに時間がかからなかったら良かったのに、とは思います。若いうちに、ありのままの自分を受け入れていればよかったのにと。でも残念なことに、差別に苦しむことがどんなものか、私の心には鮮明に残っているのです。」(※The Players Tribune 2022年5月27日記事『Being Japanese-American』より)

彼の人生にとって大きな転換点、それは知人の勧めで参加した地元クラブ、FCダラスのアカデミーで恩師と出会ったことに尽きる。恩師とはアコスタが愛情を込めて“コーチ・ジー”と呼ぶブラジル人、ホセ・マルシオ・ペレイラ・ダ・シルバ。60~70年代に活躍していた、ゼキーニャと呼ばれる名ウインガーである。現役時代にはフラメンゴやボタフォゴ、サンパウロにグレミオといったブラジルの名門クラブを渡り歩き、ブラジル代表では王様ペレの最後のゴールをアシストした男として知られる、正真正銘のレジェンドだったのだ。
ゼキーニャはアコスタにとって最高の指導者であり、最高の友人でもあった。極力目立つことを避けて自分の殻に閉じこもろうとしていたアコスタに、試合で必要な技術だけでなく消えかかっていた情熱に再び火をつけるような言葉の数々を送ったのだ。「他人の言うことを気にするな」、「周囲の目を気にして背伸びをするのはやめよう」、「他者に溶け込もうとするのをやめて目立とう」、そして「自分らしくいよう」と。さらにダラス郊外に住むアコスタが練習場へ通うのが難しいと聞けば学校まで車で迎えに行き、週末になると食事に招き、現役時代の様々なエピソードを話し、一緒にTV中継を観ながら試合で必要なことを語りあった。この偉大なブラジリアンの手助けもあり、少年の心の中にあった空っぽの器は満たされていった。揺るがない自信、そして独自のアイデンティティの確立。いつしか彼にアメフトは必要なくなっていた。

いまのアコスタには3つの夢があるという。『ヨーロッパでプレーすること』、『アメリカ代表の主力選手になっていること』、最後に『W杯に出場すること』だ。
ふたつ目の夢はすでに実現させた。2016年にA代表初キャップを獲得、翌年の北中米No.1を決めるCONCACAFゴールドカップ2017では22歳という若さにもかかわらずチームの中心選手として母国を優勝へと導いたのだ。だが満を持して掴みにいったはずの最後の夢・W杯出場をかけた2018年の最終予選では、3勝3分け3敗でまさかの5位。ロシアの地を踏むどころか大陸間プレーオフにも進めないという大惨敗に終わったことで、アメリカ代表は大バッシングを受けた。激しい批判の矛先はアコスタにも及び、ファンからは代表不要論まで飛び出すほどエスカレート。当時の所属クラブであったFCダラスでもポジションを失い、慣れ親しんだ故郷からコロラド・ラピッズへの事実上の放出をされてしまう。
2年の歳月はかかったが、しかし彼は復活する。ラピッズでの活躍をきっかけに2020年12月のエルサルバドル戦で代表復帰を果たすと、チームの6-0快勝に貢献。これが評価され、その後のAマッチ19試合連続出場という記録を残す。(※アメリカ代表におけるこの記録は、2002年のランドン・ドノバン以来の最多となった)2度目のゴールドカップ制覇に加え、所属クラブでもウェスタンカンファレンスのプレーオフ出場へ押し上げると、アコスタは2021年USMNT男子年間最優秀選手にノミネートされるまでに。辛口のアメリカのサッカーファンも黙らせる、文句なしの見事な“カムバック”であった。

残念ながら9月におこなわれたデュッセルドルフでの日本戦は、ベンチ入りも出場はナシ。彼の祖母の祖国との対戦は、残念ながら叶わなかった。だがきっと彼に落胆などないはず。なぜなら2ヶ月後にはもっと大きな舞台が用意されており、そこで合衆国の一員として日本とあいまみえることこそが本望だからだ。
「実は数週間前にリトル・トーキョーで、誰かにそれを(W杯に出場すれば、アメリカ代表初の日系アメリカ人選手となることを)言われるまで気づかなかったんですよ。でも、きっとその時がくれば誇りに思うのでしょうね。だって自分の国だけでなく自分の家族だけでもなく、私はブラックアメリカン、そしてアジア系アメリカ人を代表しているんですから。それは特別なことなんです。」
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