熱戦が続くFIFAワールドカップ2022カタール(以下、カタールW杯)、その開催国の首都ドーハ中心部から車で30分ほど離れた場所にアジアンタウン・クリケットスタジアムがある。このスタジアムでは大会期間中、地元住民のためのパブリックビューイングを開催しており、毎日数千人ものフットボールファンの要望を満たしている。だが、この会場でカタール人はおろか、海外からのサポーターの姿を見かけることはない。もちろん海外メディアが取材に訪れることもほぼない。
スタジアム建設などに従事した出稼ぎ労働者たちのために2015年、カタール政府がドーハ郊外に建設した広大な専用居住区・レイバーシティ。そのすぐそばに建てられた娯楽施設、アジアンタウン・ショッピングコンプレックス内に彼らだけの“秘密のファンゾーン”がある。インダストリアル・ファンゾーンと名付けられたこの会場は、いくつかのウェブサイトにて簡潔な説明がされているのみで、海外サポーター向けの公式パンフレットには一切記載されていない。
元々はインドやバングラデシュなど、南アジア出身者が大半を占める彼ら外国人労働者のために作られたクリケットスタジアムなのだが、大会期間中だけはフットボールの祭典一色に染まる。試合の合間にはDJによってヒンディーのポップミュージックが爆音で流れ、ボリウッドのビデオが仮設スクリーンの大画面に映される。ハーフタイム中にもダンサーが登場し、観客たちを飽きさせないよう趣向が凝らされている。時にはインドで著名な司会者であり女優でもあるLincia Rosarioがステージに登場し、男性だらけの会場を大いに沸かせていた。


インド系の演出が強めなのは、南アジア系住民への配慮だろう。特にインドの南部、ケララ州の多くの働き手にとって、カタールは昔から“第二の故郷”と呼ぶほどの主要な出稼ぎ先であるだけに、この地にいる人々の中にも同州出身者がかなり多い。余談だが、ケララ州はクリケットが国民的スポーツであるインドにおいて、コルカタが有名な西ベンガル州や、ボリウッドの聖地・ムンバイを州都に持つマハラシュトラ州と並ぶ、数少ないフットボールのホットスポットとなっている。これらの地域ではW杯のたびに、まるで自国代表のように海外の強豪チームを熱烈に応援することで知られている。中でもブラジルとアルゼンチンは人気を二分しており、これは「カラーテレビが州内に普及し始めた頃、彼らが初めて観たW杯が1986年メキシコ大会だったから」とも言われているが、本当の理由は定かではない。


きらびやかな会場から遠く離れた砂漠の中にあるこのファンゾーンは、労働者たちにとってはむしろW杯に最も近い場所である。もちろん観客のほとんどはスタジアムでの観戦を望んでいるが、彼らにW杯はあまりにも敷居が高すぎる。
そもそもファンゾーンに入場するためには『Hayya Card(ハッヤカード)』が必要なのだが、その申請には観戦チケットを持っていることが必須条件である。だが肝心のチケットはというと、国内向けに40リヤル(約1,500円)のものが数千枚販売されたものの、当然ながら即完売。それ以外には800(約30,000円)から1,500リヤル(約55,000円)と割高なものばかりで、かなりの枚数がいまも売れ残っている。
「誰が(W杯を観に)行く余裕があるっていうんだ?毎月手元に残るのは400リヤル(約15,000円)だっていうのに。」インド人電気技師の男性は、Times of Israel紙の取材にこう吐き捨てた。彼は給与の残り8万円をインドにいる両親と祖父母に送っているという。

外国人の劣悪な労働環境を西側諸国から指摘されたカタール当局は、作業現場での安全基準の強化や過酷な夏期の労働時間短縮、そして悪名高い雇用形態・カファラ制度を廃止することで改善を図ってきた。それでもいまだに多くの労働者の月収は法定最低賃金ギリギリの1,000リヤル(約37,000円)に過ぎず、職に就くために支払う仲介業者への“あっせん料”(彼らの一般月収の4〜5ヶ月分とも言われる)を借金として背負わされているのが現状である。(※詳しくは『「#ボイコット・カタール」!!ユニフォームが火をつけた大論争』もご覧ください)
だが、我々から見れば低賃金でも、彼ら出稼ぎ労働者の母国の給与水準から見れば高額の部類に入る。たとえ数万円だけだとしても、カタールからの仕送りは家族全員の生活を支える大切な“命綱”なのだ。彼らが過酷な状況にもかかわらず、カタールでの生活を続ける理由はそこにある。海外の熱狂的サポーターがうらやむ格安チケットでも、労働者たちにとってはとても手が出せるようなシロモノではない。
カタール内務省は2022年12月2日より「チケットを所持しなくともハッヤの申請は可能」と発表したが、それでも12歳以上は申請に際し500リヤルが必要となる。さらに地下鉄などの安価な交通手段はレイバーシティの近くになく、最寄りの会場へ行くとしても金銭的な負担がさらにのしかかる。その点、居住区から徒歩圏内にあるインダストリアル・ファンゾーンではカードの提示義務はない。そして何より、何度入っても無料だ。


ゆえにこの場所には、様々な境遇の労働者たちが毎夜集まってくる。
「マンチェスター・シティを愛しているから、イングランドはマイチームだ。」フィル・フォーデンを先発にすべきと主張するウガンダ出身の男性は、3年目を迎えるカタールでの生活に「管理された部屋、娯楽、食事、仕事で、人生は私が想像する刑務所のように感じることがあるんだ。」と不安を吐露する。8歳の愛娘が待つ母国へより多く仕送りしたいところだが、彼が住む施設には冷蔵庫がなく、近隣のスーパーは価格が高い。食費を切り詰めることもままならず苦労していると言う。
「毎晩来てるよ。雰囲気が好きだから。」と語るネパール人男性は、“W杯に向けて労働者の数を削減していく”という政府目標に従った会社によって、350名の同僚とともに契約終了時期を繰り上げられた。することもなく毎夜ファンゾーンに訪れる彼は、「スタジアムには行きたいけど、お金がないんだ。どうにかして稼いで、子供たちの教育のために仕送りしなきゃいけないからね。」とつぶやいた。
一方でこの地に13年間住み、家族もカタールに連れてきたというインド人男性は、このファンゾーンにやってきた観客の中で最も幸運な人間の1人と言えるだろう。日本円で8,500円を費やしたとはいえ、W杯の観戦チケットを手に入れることができたのだから。それでも彼の口からは不満がこぼれる。「俺たちはこの国の発展に貢献してきた。なのに、なぜカタール人と同じようにW杯を体感し、祝うことが許されていないんだ?」

ファンゾーンの入口には、アラビア語や英語そしてヒンディー語で「史上最高のFIFAワールドカップを実現するために貢献してくれてありがとう」と書かれた横断幕が掲げられている。言わずもがな、大会のために尽力した外国人労働者への感謝の言葉である。だが、うがった見方をするならば、カタール当局と大会組織委員会が彼ら低賃金労働者をW杯の主要なイベントから遠ざけ、秘密の無料イベントに“隔離”しているとも言えなくもない。砂漠の中のファンゾーンは、現在のカタール社会の縮図。自分たちが作りあげた世界最大の大会を2つの巨大スクリーンを通して楽しむだけとは、なんという皮肉か。
それでも彼らは、今夜もこの場所にやってくるのだ。英Guardian紙の取材に対し、別のネパール人男性は笑って答えている。「試合のチケット代が月給の半分なんて高すぎる。だから、ここで観たほうがいいんだよ!」
投稿者プロフィール

- LADS FOOTBALL編集長
- 音楽好きでサッカー好き。国内はJ1から地域リーグ、海外はセリエAにブンデスリーガと、プロアマ問わず熱狂があれば、あらゆる試合が楽しめるお気楽人間。ピッチ上のプレーはもちろん、ゴール裏の様子もかなり気になるオタク気質。好きな選手はネドヴェド。