文化・歴史

ウニオン・ベルリンとパンクの母

カッと見開いた目に、あのレディー・ガガより奇抜なファッション。オペラ歌手のような高音とドスの効いた低音を自在に操る規格外のアーティスト、ニナ・ハーゲン。彼女が旧東ドイツを代表するフットボールクラブ、ウニオン・ベルリンと結びついたのは決して偶然ではない。今回はクラブのアンセムとして親しまれる、ニナ・ハーゲンが1998年にリリースした『アイザーン・ウニオン(鉄のウニオン)』をご紹介する。

ゴスロリ風やパンク風、インドのサリー、時にはオモチャの男性器を付けてステージに登場したこともあった。そんなド派手な容姿に負けず劣らず、“パンクの母”ニナ・ハーゲンのこれまでの人生もまた独特で激しく波乱万丈と呼べるものだった。まだ世界が冷戦の時代、ドイツも東西に分断されていた頃。ニナは21歳の時に、養父の反政府的思想を支持したおかげで、祖国の東ドイツから追放処分を受けた。結果やむを得ず西側に亡命。イギリスに渡り、4人の仲間とニナ・ハーゲン・バンドを結成すると、完成した1stアルバムは大ヒットを記録する。

だが、彼女の傍若無人な態度と個性的すぎるパフォーマンスは、メンバー間に確執を生じさせる。その後、4人と袂を分けたニナだったが、英語とドイツ語を駆使し様々なアーティストと共演。現在まで精力的な活動を続け、200枚以上のレコードをリリースした。しかし、独自のUFO理論(?)なる謎思想に傾倒していった為に、むしろ音楽以外の部分で注目されることが多くなり、結果活躍の場はメインストリームから外れていった。また、起伏が激しいのは私生活でも変わりなく、幾度となく結婚・出産・離婚を繰り返す。とくに37歳の頃、17歳のパンク少年との2度目の結婚では、たった1週間で破局を迎えているという破天荒っぷり。公私含め、そうした彼女の“型にはまらない生き方”が、今なお世界中から根強い人気を集める“カルトスター”たる所以なのかもしれない。

ニナ・ハーゲン、1974年リリースの『Du hast den Farbfilm vergessen(邦題: カラーフィルムを忘れたのね)』。当時19歳だった彼女のアルバム『Was Den』の収録曲は東ドイツ最大の大ヒットとなったが、2010年に発表されたニナの自伝で「困窮する東ドイツ経済と市民生活に対する皮肉だった」と告白している。
2021年、16年にわたりドイツ首相を務めてきたアンゲラ・メルケルの退任式で演奏された『カラーフィルムを忘れたのね』。歴代首相の多くが送別の曲にクラシックを選ぶ中、東ドイツ出身の彼女は「自分の青春時代のハイライト」とニナ・ハーゲンのヒット曲を選択した。メルケルとニナのエピソードについてはNHKの『映像の世紀 バタフライエフェクト「ベルリンの壁崩壊 宰相メルケルの誕生」』でも紹介されている。

一方のウニオン・ベルリンは旧東ドイツ時代、常に当局から目をつけられている存在だった。秘密警察シュタージの支援を受けたディナモ・ベルリン(※現 ベルリナーFCディナモ)に対し、ウニオンファン(ウニオナーと呼ばれている)の多くは労働者階級の人々であり、反政府主義・反社会主義者たちの象徴とされていたからだ。その後、ベルリンの壁が崩壊し、独裁政治から解放されても、彼らの苦難が終わることはなかった。旧東ドイツ地域の経済状況に合わせ、常にクラブは慢性的な財政難と消滅の危機に苦しんでいた。そんな中、窮状を幾度も救ってきたのが、圧政に負けずクラブを長らく支え応援し続けてきた労働者階級の人々だった。新スタジアムを建設するといえば、2,000人以上のファンが無償で工事を手伝った。資金がなく2部ライセンスが取れないといえば、ファンらが献血をして得たお金をクラブに寄付をした。奇抜なアイディアと熱い情熱。クラブとファンとの強い絆が垣間見れるエピソードといえる。

ウニオン・ベルリンのサポーター、ウニオナー。ワイマール共和国時代から労働者階級のクラブであったウニオンが東ドイツ当局に長年抑圧されていたという歴史のためか、鉄の同盟で結ばれた彼らは富裕層や権力者に対する反発は強い。(※画像: AP/Michael Sohn)
ウニオン・ベルリン・ウルトラスの動画集。
ウニオン・ベルリン名物、毎年恒例のクリスマスキャロル・シンギング。2003年のクリスマス・イブ、不振だったシーズン前半の憂さを晴らすため、ワインを持ったウニオナー89人がアルテ・フェルステライに忍び込みクリスマスキャロルを歌ったのが始まり。いつしかそれは3万人以上のファンが参加するクリスマスのビッグイベントとなり、ウニオンのコミュニティの絆の強さを示すエピソードとなった。

クラブアンセムが初めて披露されてから20年経った2018年、地元メディア『rbb24』の取材にウニオンの広報はチームとニナとの関係性についてこんなことを述べている。

「ニナ・ハーゲンは、ウニオンが体現している物と一緒だったんです。ちょっとワイルドで、ちょっとだらしなくて、ちょっとクレイジーな所が。」(※当時のユニオン・ベルリン、コミュニケーション部門マネージング・ディレクターのクリスチャン・アルベイト氏)

両者に共通する“奇抜な発想”に“尽きることのない情熱”、それが“東”の人間というものなのだろうか。時代が変わっても、人々の心にいつまでも刻み込まれ、そして受け継がれていく。

「我々“東”は進み続ける!“西”が買えない物はなんだい?鉄のウニオン!」

奇抜なカルトスターが歌うアンセムに、逆境を恐れないカルトクラブ。その奇跡のマッチングによって、試合前からホームスタジアムのアルテ・フェルステライは溶鉱炉のように燃え上がる。

レギオナルリーガ・ノルドスト時代(独4部)だった1998年11月14日、ケムニッツとの試合で『アイザーン・ウニオン』を初披露する披露するニナ・ハーゲン。現在まで長くファンに愛される名曲は、当時のクラブのマーケティング部門と監査役会の会長が保有するメディア企業、そして大のウニオンファンであるニナ・ハーゲンとのコラボによって生まれた。(※画像: 1.FCウニオン・ベルリン )
ウニオン・ベルリン、クラブ創立50周年を祝うコレオ動画。ニナが歌う前からウニオナーにとって“アイザーン(鉄)”という言葉は特別であり、その起源はハッキリしないが、ウニオンの前身クラブであるSGウニオンのレジェンドでアイドルだったヘルベルト・ラダッツは1920年代後半から30年代初め頃、いつもファンから「君たちは鉄にならなければいけない!」と応援されていたと証言している。

【こちらも要チェック】Nina Hagen / NUNSEXMONKROCK(1982)

ローリングストーン誌に「史上最も聴くに耐えない」と酷評された1stソロアルバム。ロック、レゲエ、ダンス、インドミュージックと、ジャンルレスな1枚。ある意味で『ニナ・ハーゲンというジャンル』を決定づけた。

ウニオン・ベルリン公式HP 『アイザーン・ウニオン』

投稿者プロフィール

KATSUDON
KATSUDONLADS FOOTBALL編集長
音楽好きでサッカー好き。国内はJ1から地域リーグ、海外はセリエAにブンデスリーガと、プロアマ問わず熱狂があれば、あらゆる試合が楽しめるお気楽人間。ピッチ上のプレーはもちろん、ゴール裏の様子もかなり気になるオタク気質。好きな選手はネドヴェド。
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