2022年からアルビレックス新潟シンガポールに所属する李忠成(り・ただなり)選手のインタビュー、今回は後編をお送りする。これまで国内全タイトル制覇、日本代表での活躍、プレミアリーグでの経験などなど、殊更ここで改めて語る必要はないほどの輝かしい実績の数々をお持ちであるにも関わらず、ご本人は「過去のことは、ほんの2行くらいでいいと思います」とバッサリ。そのため今回の記事でも、常に前進と挑戦を続ける李選手らしく今後のお話を中心にお送りしようとも考えたが、そのバイタリティー溢れる姿勢はやはり過去の経験によって形成されたものである。聞かないわけにはいかないだろう。そこで現在の李選手のマインドはいかにしてできあがったのか、『李忠成の作り方』を伺ってみた。(※文中敬称略)
【※李忠成選手が『現在』を語る前編はこちらから】
そもそも李忠成という人間が挑戦することを止められないのは、あらかじめ彼の遺伝子に刻まれている宿命のようなものかもしれない。それが伺えるような2つのエピソードをご紹介したいと思う。
その前に、筆者は彼に意地悪な質問をしてみた。東京、柏、広島、サウサンプトン、浦和、横浜、そして京都と、これまで多くのクラブを渡り歩いた中で特に気に入った街はどこかと。すると李忠成は「どのクラブにも愛しかないですが」と前置きをした上で、こう言葉を続けた。
「柏は特別な街であり、特別なクラブのひとつですね。サッカー選手として何もない僕を選んで育ててくれた、かけがえのない故郷のひとつです。」
『特別』、彼が柏をこう表現したのはワケがある。
地元・東京にあるJFLの横河武蔵野(現・東京武蔵野シティFC)、その後はFC東京の下部組織で技を磨いた学生時代。特にFC東京U-18ではクラブユース選手権(adidas CUP)2001優勝、さらに高円宮杯第12回大会と2001Jユースカップではチームの準優勝に大きく貢献する。また個人でもプリンスリーグ初代得点王や優秀選手表彰といった実績を残し、高校卒業後のトップ昇格は誰が見ても当然の流れと言えた。だが順風満帆にいくと思われたルーキーイヤーの2004年が終わる頃、李忠成は“ある決意”で周囲を驚かせることとなる。
「あの当時の徳さん(※当時のFC東京強化部長、現・ファジアーノ岡山の代表取締役である鈴木徳彦氏)ですね。11月の終わりか、12月の頭くらいに契約更新で。“3年契約あるから来年もよろしくね”って感じで契約書出された時に、“僕、サインしないです。サッカー辞めます。”って言ったんです。徳さんも“は?”みたいな。」

インタビュー前編で「ベンチに1mmも入れなかった」と本人が振り返った通り、記念すべきプロ1年目のトップチーム試合出場数はゼロ。いわゆる“アジア枠”が存在しなかった当時、FC東京の重要なセンターラインを形成するのはアマラオやケリー、ジャーンといった、後にクラブのレジェンドと呼ばれるブラジル人選手たちであり、新人にとってはあまりに高すぎる目標であった。それゆえ李の主な活躍の場はサテライトリーグ(※当時Jクラブがサブ組の試合経験を積ませるためにおこなった2回戦総当たりのリーグ戦。2009年に一旦廃止、2016年にリニューアルして再開されている。)に限定され、なおかつこれまでと異なるポジションでの不慣れな役割を求められた。これまでサッカーを愛しサッカーとともに生きてきた彼にとって、こうした違和感は本来の彼が持つ心のあり方までにも悪影響を与えることになる。
「あの時、僕自身が他人にへつらうことをしていました。高校3年生まではサッカーが上手ければ、勝手に周りが“李くん!李くん!”って集まって来たんですけど、プロ入ってサッカーが全く通用しなくなると支えになるものが全くなくなるんですね。何もなくなるんですよ。当時は承認欲求なんて言葉はありませんでしたが、人間は弱いと他人から求められるようなことをしようとする。媚びることをするんです。“先輩、◯◯買ってきますよ”とか、“パチンコ行くなら、僕が運転しますよ”とか。ホントにパシリみたいなことをして、どう他人から李って呼ばれるのかってことばかりを思っていました。そんな自分がイヤでイヤでしょうがなくて。こんな心を捨ててまでサッカー選手になるはずじゃなかったって。だから1回サッカー辞めよう、大学行ってもう一度仕切りなおそうと思ったんです。」
それでも彼がプロキャリアをかろうじてつなげられたのはFC東京在籍時、初めて呼ばれた韓国U-20代表合宿で当時Kリーグで活躍する同世代と渡り合えたという確固たる自信。そしてユース時代から彼の活躍を追い続けてきた“ある人物”の存在だった。
「大学進学するにしても、もう12月。どうしようかなと思ってる中、夢の島でシーズン最後のサテライトの試合があって。試合の後に当時、柏の菅又さん(※菅又哲男氏、元・柏のチーム統括部長)というGMの方が来てくれて。“サッカー辞めるんだったら来いよ”って声をかけてくれたんです。」
「拾ってもらった」という柏レイソルで、アタッカーとしての才能を開花させた李。当時の監督であった石崎信弘氏が彼をレギュラーとして抜擢したこともあり、2006年シーズンは31試合と出場機会が激増。更に翌年にはゴール数を2桁に乗せたことで名実ともに柏のエースとしてチームを牽引、現在まで続くサッカーキャリアの基礎を築くこととなった。
そんな彼に再び大きな転機が訪れる。2008年の北京オリンピック出場を狙う、日本五輪代表入りへの打診である。

「反町さん(※反町康治U-23代表監督 現・日本サッカー協会技術委員長、兼Jリーグ理事)から電話かかって来て。“親を含めて三者面談しないか”って、新宿の割烹料理屋で3人で。そこで“日本のために頑張ってくれないか?”っていうオファーをもらいました。」
幼い頃よりルーツである韓国代表はもちろんのこと、三浦知良選手やラモス瑠偉氏のプレーを見て日本代表にも憧れていたという李だけに、反町氏からのオファーはきっと心踊ったことだろう。その一方で彼の出自から、これまで日本人だけでなく韓国人からも心ない言葉を浴びせかけられることが少なくなかった。前述の韓国U-20代表合宿に参加した際には、李は日本への帰路でこんなことを考えていたという。
「朝鮮半島にルーツがあるけど、日本で生まれ育った僕は韓国人ではないのかもしれない。でも、日本に戻れば国籍上は外国人になる。韓国人でも日本人でもない僕は、何人なんだろう。」(※『祖国と母国とフットボール ザイニチ・サッカー・アイデンティティ』慎武宏 著より)
長い葛藤の後に導き出したのは、韓国姓の『李』を残したままに日本の代表として五輪という世界の目が集まる大舞台に立つという、彼にしかできない大きな大きな決断だった。
「名前に『李』を残すことによって、五輪に出た時に“なんで日本人なのに李なんだ?”っていう疑問を感じて欲しかった。グローバルな世界がもう始まったんだよ、っていうのを感じて欲しかった。もうひとつは、自分が五輪の舞台に立つことで同じ境遇にいる人たちに勇気や希望を与えたい。彼らには何の言葉を発しなくとも、元気がもらえるというのを感じて欲しかった。だから絶対五輪には出たかったですね、『李』忠成として。」

日本人として生きるのであれば、日本姓を名乗るという選択もあっただろう。楽な道とは言わずとも、極力波風を立てないという考え方もあったはずだ。だが、彼は語る。
「誰が見ても李忠成、なので。名前変えたよっていっても、生き方は変えられない。五輪を終わった後も、僕は死ぬまで『李』を背負っていく。」
何かに媚びへつらうことなく、自分らしい生き方を選択すること。もちろんそれは単なる強気な姿勢だけではまかり通らない、難しい選択であることは李も十分理解していた。日本と韓国、両国を結ぶ存在になるという「魂が燃える」挑戦には、大きな覚悟と責任がともなっていることも。
「帰化してからは、僕の後ろに在日韓国人だったり、在日朝鮮人だったり、在日◯◯人だったり、そういう来歴を持ってる人たちの代名詞だと思ってきました。だからもし李が変な言葉だったり、変な行動をとったら、“やっぱり朝鮮人は”とか“やっぱり韓国人は”とか、“やっぱり◯◯人は日本語も喋れないのに日本に帰化して、アイツら何やってんだ”と言われると僕は思っています。」

この頃に身についたプロ意識は現在の立ち振る舞いにもつながっており、率先して周囲にプロサッカー選手として、プロアスリートとしての手本や社会との関わり方を見せることで、シンガポールの人々の意識を変えようと努力している。彼はそうして作った“立場”がどの様に影響を与えるかを20代の頃に痛いほど学び、そして知っているからだ。
「例えば、日本に帰化した次の日にコンビニ行ったら、新聞の一面に『李、最終兵器来た!』みたいな感じで載っていて。今までサンダルとかジャージとか金髪とかで所作も言葉もひどかった少年が“立場が人を変える”は正に言葉のごとく、その瞬間にコロッと変わるわけですよ。それまでの言葉使いも変えたり、洋服も正さなければいけないとか。僕の中で実際に経験しましたから、だから誰でも変われると思う。」

-最後に今後のことを伺いたいのですが、現在は現役でありながら様々な事業も立ち上げていらっしゃいます。これからもフットボールに携わっていくのでしょうか。それともフットボールと別のフィールドで挑戦を続けていくのでしょうか。
「一生サッカーに携わっていきたいと思います。現役サッカー選手のうちは1ミリでも選手としての価値を上げて、プロとして『感動』を創り続けて、1人でも多くの人達と感動を共有していきたい、と思っています。知らない方も多くいると思いますが、10年前から経営者としてビジネスの世界でも戦っています。現役引退後もサッカー界での価値をビジネスの世界でも形にできるよう、ビジネスマンとしても挑戦していきたいと思っています。そのためにシンガポールという国を選んで、日々他業種の方々から多くを学ばさせて頂いています。」
この記事の掲載時点でシンガポールリーグも残り4節。前節、ライオン・シティ・セイラーズと勝ち点で並んだアルビレックス新潟シンガポールは、続く24節で李忠成の2得点で逆転勝利。この結果によりチームは3連勝、リーグ首位に返り咲いている。李忠成の“シンガポールサッカーへの挑戦”、その輝かしい第1章はもうすぐ形になろうとしている。なおも難しいチャレンジであることには変わらないが、覚悟を持っていると語る李の自信が揺らぐことは決してない。なぜなら彼は過去の経験から、自らで夢を実現する術を知っているからだ。ゆえに「シンガポールのジーコ、なれますか?」という問いにも彼は迷わずこう答える。
「なれますよ、がんばれば!」
【※李忠成選手インタビューの前編はこちらから】

李忠成(り・ただなり)
1985年12月19日生まれ、東京都出身。
高校卒業後の2004年、FC東京U-18からトップ昇格を果たしプロの世界へ。その後は柏レイソル、サンフレッチェ広島を経て、2012年にはイングランド・プレミアリーグのサウサンプトン(※当時2部)への移籍を果たした。怪我のため出場機会に恵まれなかったものの多くのゴールに絡む活躍を見せ、中でもダービー・カウンティ戦でのゴールは「セント・メリーズの衝撃」と呼ばれ、今も地元ファンの間では語り草となっている。国内に復帰した2014年以降は浦和レッズ、横浜F・マリノス、京都サンガと渡り歩き、数多くの国内タイトルを獲得。アルビレックス新潟シンガポールの一員となった2022年シーズンでは、ゴールはもちろんチームの2年ぶりのリーグ制覇も期待されている。また代表チームでも存在感を示しており、2008年は北京五輪代表、2011年からはA代表として活躍。特に日本をアジア王者に導いたアジアカップ・カタール大会決勝、延長での劇的ボレーシュートは数ある日本代表のゴールの中でもハイライトのひとつに数えられている。
●李忠成オフィシャルウェブサイト https://www.leetadanari.com ●Twitter @Tadanari_Lee
●Instagram @tadanarilee_official ●YouTubeチャンネル 李忠成/Tadanari Lee
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