2022年10月1日、インドネシアの東ジャワ州ラワンにあるカンジュルハン・スタジアムでおこなわれた、アレマFCとペルセバヤ・スラバヤの“東ジャワダービー”でのこと。23年ぶりとなるホームでのダービー敗戦に数百人のアレマサポーターが激怒し、ピッチへとなだれこんだ。警官隊は鎮圧目的で催涙弾と閃光弾を発砲し、パニック状態になった観客は少ない出口に殺到。催涙ガスによる窒息と将棋倒しによる圧迫で子供40名を含む135名が亡くなり、600人以上が負傷するというフットボール史上稀に見る大惨事となった。この『カンジュルハンの悲劇』は世界に改めてインドネシアのフットボールが現在非常に危険な状況にあることを知らしめた。なぜインドネシアのフットボールシーンには、これほど怒りと暴力が溢れているのか。「世界で最も危険」と呼ばれる彼ら、インドネシア・ウルトラスの狂気の秘密とは。
「精神的にも肉体的にも強くなってほしい!弱い者に戦うことは期待できないからだ!」
若者たちに檄を飛ばすアビ・イルランことイルラン・アラランシア氏は、このグループのリーダーではあるが軍人ではない。そして、ジャングルでのキャンプと称した訓練にやってきた参加者たちもまた、これから戦地に赴く兵士ではない。彼らはインドネシアを代表するクラブのひとつ、ペルシジャ・ジャカルタのウルトラス『ガリス・ケラス』(※強硬派、の意)のメンバーである。もちろん、彼ら…通称“ジャクマニア”がこれから臨もうとしているのが命をかける戦場であるという意味では、さほど違いはないかもしれない。なにしろインドネシアのウルトラスが好んで使うフレーズが「Sampai Mati(サンパイ・マティ)」、“死ぬまで”なのだから。
インドネシアとウルトラス文化との出会いは実に運命的であり、必然ですらある。1997年に起こったアジア通貨危機は、32年間独裁政治をおこなっていたスハルトを政権から引きずり落とすきっかけとなったものの、インドネシア社会全体を文字通り大混乱に陥れた。インドネシア通貨ルピアは急落、強烈なインフレが国民生活を容赦無く襲い、食料品や燃料の価格は軒並み急上昇した。失業者が都市にあふれ、治安が悪化したことで犯罪発生率も大幅に増加。一時は国民の半数が困窮状態になるほどであった。この変革期に社会からはじき出されて大きな挫折感を味わった人々は、失ったコミュニティとアイデンティティ再構築の場を探し求めた。そうして彼らがたどり着いた場所、そのひとつがウルトラスという特殊な文化であった。おりしもスハルト政権崩壊によって国外からの情報を制限していた検閲法が緩和され、海外のフットボール…特に当時“世界最強リーグ”とうたわれたイタリア・セリエAの情報が簡単に手に入るようになったのも大きかったのだろう。
「貧困に苦しむ労働者階級」、「あらゆる権力への反発」、「攻撃的なテリトリー意識」、「社会に対する強い承認欲求」など、ウルトラスを構成している要素とインドネシアの人々が元来持っている気質、そして彼らが置かれている境遇とが完全にマッチした。また、政権崩壊後に噴出した社会への不平不満の受け皿として、政治活動との関わりが強いウルトラスという応援スタイルは格好の表現手段だったに違いない。実際にインドネシア初のグループは、かねてより社会運動が盛んなことで知られるジャワ島スラカルタ(※別称である“ソロ”の方が知られている)で生まれており、本家イタリアでは警察の取り締まり強化や古参メンバーの減少により(暗殺などで命を落とした者もいた)かつてウルトラスの代名詞であった政治色がすっかり薄まり変質していく一方で、インドネシアではウルトラスが誕生当初の姿のままに残されている。
インドネシアのフットボール人気を支えているのは、間違いなく彼らウルトラスだ。彼らの熱狂に引っ張られるようにこの国のフットボールは成長と拡大を続けており、その勢いが弱まる気配はない。人気No.1クラブ、ペルシブ・バンドンの『バイキング』が参加者10万人を抱える大組織へと発展、多くのウルトラスグループもまたメンバーを激増させた。観客数も新型コロナ前に比べれば減少したとはいえ、様々な制約が課せられた2023-24シーズンでペルシジャの平均2万人など、多くの試合で1万人以上のサポーターがスタジアムに集まった。クラブ人気の指針のひとつとなるSNSでのフォロワー数では、インドネシアに1億人のユーザーがいるとされるInstagramで、ペルシブが710万人超えと非常に高い注目度を維持し続けている。(※なおJリーグ勢では、過去にフォロワー数700万人の大人気のインドネシア代表プラタマ・アルハン選手が在籍していた東京ヴェルディが40万人でトップとなっている。)
1万7千もの島々で構成され、世界で4番目に多い人口2億7千万人の国民を抱えるインドネシアで、いまやその7割が熱狂的なファン(※一方で日本は全人口の3割弱)と言われている。本場ヨーロッパですら若者たちのフットボール熱の冷え込みが懸念され、クラブの目がスタジアムからTVモニターの向こうにいる視聴者に向き始めている今、インドネシアでは今日もスタジアムがフットボールの主役であり、ウルトラスはその中心に居続けている。そのためか、「インドネシアこそアンチ・モダンフットボールの“最後の砦”」と評されることも少なくない。
だが、熱狂と狂気は紙一重である。
2018年、当時23歳のジャクマニア、ハリンガ・“アリ”・シルラは「アウェイサポーターの入場禁止」というルールを破って単身バンドンでのアウェイゲームに赴いたが、スタジアムへたどり着く前にペルシジャのファンであることをペルシブのサポーターにバレてしまう。結果、ハリンガは十数人に繰り返し暴行を加えられて亡くなった。暴行の一部始終は携帯によって撮影され、YouTubeにアップロードされた後にSNSによって世界中に拡散された。(※このあたりの話は、名著『ULTRAS 世界最凶のゴール裏ジャーニー』(ジェームス・モンタギュー氏 著/田邊雅之氏 訳/カンゼン)をご参照いただきたい。)この事件の2年前には今回の逆…17歳のペルシブファンの少年がスタジアム外でジャクマニアに撲殺されており、凄惨な動画によってインドネシアのフットボールがいかに危険な環境で、同様の悲劇が繰り返し起こっていることを世に伝える大きなきっかけとなったのだ。
インドネシアのスポーツを監視する地元NGO団体『Save Our Soccer』(SOS)の調査によれば1995年以降、インドネシアではカンジュルハンで亡くなった135名以外に78名のサポーターが命を落としているという。特にペルシジャと隣接する最大のライバルであり、国内最大のダービーマッチ“オールド・インドネシア・ダービー”(※“ラガ・クラシック”、“エル・クラシコ・インドネシア”とも呼ばれることがある)の相手、ペルシブとの試合で起こる抗争によって7年の間に7名が犠牲となっており、SOSを運営するアクマル・マルハリ氏は「ペルシブがホームで試合すれば誰かが死に、ペルシジャがホームで試合すれば誰かが死ぬ。これはインドネシアのフットボールにとって、とても醜い伝統だよ。」と報復殺人の応酬を嘆く。「インドネシアのフットボールはエンターテイメントではなく墓場になってしまった。我々のフットボール愛のために、サポーターの命が決して犠牲になるべきではない。」
誤解がないよう言っておくが、インドネシアの人々は皆往々にして陽気でポジティヴ。個人的な話で恐縮だが、筆者のジャワ人の知人もまた人懐っこくて礼儀正しく、好印象しかなかった。であるならば、なぜ彼らはことフットボールに関しては、こうも簡単にタガが外れてしまうのか。それを答える前に『Amok(アモック)』、そして『Tawuran(タウラン)』(※トゥビルと呼ぶこともある)という2つのキーワードを説明しておこう。
まずアモックだが、古くは大航海時代にこの地に訪れたキャプテン・クックの手記にも明記されていた、「興奮して暴れる」や「逆上する」といった意味があるマレー語由来の英語だ。インドネシア人に多い特殊な心理状態を指すのだが、具体的には侮辱を受けるなど過度な精神的負荷がかかると、逆上して武器を持ち出し暴れまわるという。より男性の方がこうした精神状態になる傾向が強く、まわりが取り押さえない限り無差別に(時には自身もその対象になる)殺傷行為を続ける。そして厄介なことに、正気に戻ったあとは暴れていた間の記憶が一切ない…らしい。そのために長らく悪霊が原因と考えられていた。過去には物価高騰に対する市民デモや、待遇改善を求める労働組合のストライキといった抗議活動や集会が思わぬ形で熱を帯び、遂には暴動へと発展してしまう、という例があった。また、スハルトが政権を奪取するきっかけとなったクーデター未遂事件、その真の首謀者と疑われたインドネシア共産党に対する大粛清の際には、多くの共産党関係者が一般市民たちによって殺害されており、虐殺に歯止めがかからなくなった要因のひとつにアモックが挙げられている。
一方のタウランは大規模な乱闘行為を意味しているのだが、実際は明らかにケンカの域を超えた非常に過激なもので、投石や放火だけでなく、時にはマチェーテ(蛮刀)や強酸を武器として持ち出すこともあるのだ。発生件数には波があるものの、この40年間で386件のタウランが起こっており、最悪であった2011年には年間82名の学生が命を落としている。近年では高校生から中学生、さらには小学生と低年齢化も進行しており、スラマン市内の小学校で起きたタウランでは、クリスと呼ばれる短剣を所持していたのは小2と小4の生徒だった。タウランは首都ジャカルタなど都市圏にいる学生間で起こることが多いのだが、より問題なのは地方の大人社会でもたびたび発生しているということだ。多民族・多言語・多宗教国家であるインドネシアにおいて地域間のいがみ合いは多く、タウランによる村同士、街同士の衝突が後を絶たない。しかも長年の抗争の中で対立の元となる原因が忘れられ、「昔から◯◯地域とはそういう関係」という中身のない因縁によって争いが繰り返されていく。そして、こうしたライバル関係はフットボールの中にも持ち込まれていくのだ。
両方に共通するのは、個人ではなくグループになると発生しやすい…というより、これらは個人ではほとんど起こらないということである。フーリガニズムなどスポーツ社会学研究が専門であるビクトリア大学のラモン・スパアイ教授が、「若い男性たちが個人的な価値やアイデンティティの感覚を得ることができるのは、帰属意識、知名度、評判の組み合わせ」と述べているように、過激な攻撃的行為は仲間からの評価があってこそだからだ。もちろん、決して尻込みはできない。インドネシア社会でいまだに「男は強く、勇ましくなければいけない」というマッチョな価値観が根強く残っており、仲間のために戦えない者はウルトラスという居場所さえも失いかねない。ゆえに彼らは超えてはいけない一線を超えて戦う。“死ぬまで”、である。
今のところ、暴走を繰り返すサポーターを押しとどめるだけの方策はインドネシアにない。フットボールクラブは売り上げを伸ばすため、スタジアムのキャパシティを超えるチケットを販売し、安全管理も緊急時の避難計画もおざなりになっている。(※実際、カンジュルハン・スタジアムでの事故ではキャパ3万人をはるかに超える4万2千人の観客が入っており、いくつかの出入口は施錠され封鎖されていた。)賄賂や縁故主義によって腐敗したPSSI(インドネシアサッカー協会)はスハルトがかつて犯した過ちをなぞり、現会長のエリック・トヒル(※インテル・ミラノの元会長)はフットボールより2014年のインドネシア大統領選挙出馬に関心があるようで、ファンにとって協会はもはや侮蔑の対象でしかない。
国内リーグはたびたび八百長スキャンダルに揺れ、アジアカップ2023のために代表チームがカタールに到着したその日、2部クラブの元オーナーを含む3名が逮捕された。国はFIFAやAFCの協力を得て変革の第1歩を踏み出したばかりで、暴力の根絶には程遠い。警察組織はカンジュルハン以降も威圧的な姿勢は変わりなく、デモ隊に向けてかまわず催涙弾を撃ちこんでいる。サポーターの燃え盛る怒りの炎に、くべる薪には事欠かないのが実情だ。
多くの犠牲者を出したカンジュルハン・スタジアムは一部の反対意見がある中、2023年9月から解体作業が始まった。被害者家族への経済的補償に関する民事裁判が続いているものの、刑事訴訟が結審したことで工事の開始が決定されたのだ。今のところFIFAの規定に沿う新たなスタジアム完成の目処は立っておらず、アレマFCは300km以上離れたバリ・ユナイテッドのカプテン・イ・ワヤン・ディプタ・スタジアムに仮住まいしている。
もっともチームがラワンへ戻ったとして、アレマニア(アレマのファン)が心に受けた傷の深さはもう埋まらないのかもしれない。マイクラブが街から離れ、試合はもっぱらTV観戦となったアレマニアの1人は中東のTV局『アルジャジーラ』の取材に対して次のように語った。「アレマがゴールを決めた時に俺たちが感じていた高揚感は、もうなくなってしまった。これほど多くの人が亡くなっているのに、祝うのはふさわしくないんじゃないか。」彼らの情熱が薄れたのは、それだけではない。100人以上の同胞が命を落としたにもかかわらず、訴追されたのがたったの5人だけだったことで、当局とクラブに失望したからでもある。「アレマがリーグで1位になることなど、もう気にしていないんだ。俺たちは正義が第一であることを望んでるんだよ。」
武闘派で知られる冒頭のイルラン・アラランシア氏も、度を越したインドネシアのファンシーンを変えねばならないことは十分に承知している。「『カンジュルハンの悲劇』以来、インドネシアのサポーターたちは心を開き始めている。インドネシアのファンの熱狂は広がりすぎているんだよ。よその国では試合前か試合中、試合後に限られている。しかし、例えばインドネシアで、バイキングのシャツを着た人間をジャクマニアが見かけたら問題になりかねない。他の地域でも同様だろう。我々のライバル関係は行き過ぎた。ライバル関係は90分だけであるべきだ。」
誰もが傷つき、戦いに疲れ果てているのはわかっている。だが、誰もまだ戦いを止める術を知らないままでいる。
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